なぜ八坂神社は、わざわざこのご時世にも正門に 「特攻服で初詣お断り」と掲げるのか?
皆様、いきなりですが、
特攻服姿の人って、
【実際に】見たことありますか?
ニュースの映像等ではなく、実際に、です。
世代や地域にもよると思いますが、
30代以下の人だと、
一度も実際には見たことがないという方も結構いらっしゃると思います。
そうなんです。
特攻服を着る人って、今すごい減ってます。
特攻服を着る人といえば、暴走族!
暴走族の数について、法務省が作成している犯罪白書を見ても、下記のように書かれてあります。
「暴走族の構成員数及びグループ数の推移(平成元年以降)は,2-2-2-4図のとおりである。
構成員数は,昭和57年のピークの後,平成期を通じて減少傾向にあり,そのうち少年の構成員数は,平成期で最も多かった平成2年(2万7,858人)と比べ,30年(3,023人)は9分の1以下まで減少した。また,グループ数は,平成期の前半は増加傾向にあったが,14年(1,313)をピークにその後は一貫して減少し,30年(134)は14年の9分の1以下であった。」
(令和元年版 犯罪白書 第2編/第2章/第2節/3から引用)
また、特攻服を着る人がいるとしても、ほとんどは卒業式か成人式の日にしか見かけません。
でも、こんなご時世にもかかわらず、
年末年始、初詣の時期になると、
「特攻服でのお詣りお断り」と、
わざわざ正門にでっかく看板を掲げる神社があります。
成人式や卒業式ならまだしも、特攻服で初詣?!
そもそもそんな発想すら持つことも難しいのに、なぜ。
こちらがその看板の写真です。
「一、特攻服その他、参拝に相応しくない服装等での境内入場禁止」
はい、看板を見たらお判りいただけますが、
その神社は、
京都祇園に鎮座する、八坂神社です。
皆様ご存じ、日本三大祭の「祇園祭」を行う、八坂神社です。
しかもこの看板、正門(南楼門)に掲げられていました。
(八坂神社の正門を西楼門だと思われている方は多いと思いますが、正門は南楼門です。
ほとんどの神社は南門が正門になっています)
なんでこのご時世に、
わざわざ正門にでっかく、
「特攻服で初詣お断り」
なんて掲げなければいけないのでしょうか?
実は、、、、、
過去に実際にそのような事件があったからなんです。
しかも、この事件、、、、、乱闘事件にまでなりました。
一体、いつ?!
平安時代です!!!!!!!
では一体誰が、、、、、、
平清盛なんです!!!!!!
はい、「平氏にあらずんば人にあらず」でおなじみの、平清盛です。
ではなぜ、清盛は乱闘事件を起こしたのでしょうか?
お話しします。
時は久安3年(1147年)6月14日、
清盛30歳の時でした。
この日は、祇園社(いまの八坂神社のこと)で御霊会(怨霊を鎮める祭礼)の日に当たり、
田楽(食べ物じゃなくて、芸能)が奉納されることになっていました。
その翌日の6月15日には、清盛も心に秘めた宿願を果たそうと、祇園社に田楽を奉納することにしていました。
そのため、清盛の郎党たちが警備のために八坂神社に訪れたのですが、
そのとき、郎党たちは武装していました。
武士を警備するのなら、武装して当然のようにも思いますが、
でもここは神社で、
怨霊を鎮める祭礼を昨日したばかり。
その次の日に、武装して神社の境内に入ってくるなんて、
せっかく鎮めた怨霊をまた、たたき起こすようなもんですよね。(;’∀’)
それを見た祇園社の神官さん、当然怒ります。
警備のみならず、田楽の演奏者も含めて、清盛の郎党を境内から追い出そうとします。
しかしこの神官の対応に、清盛側も納得いかず、
口論となり、
口論が小競り合いとなり、
そしてついには乱闘にまで発展。
清盛の郎等たちは、なんと矢を射込み、その矢が社殿の柱に突き刺さったのです。
さらには、神官たちに負傷者まで出る始末になりました。
神様の家である社殿に矢を射るなんて、とんでもないですし、神官をケガさせるのもありえないですよね。。。
その後、清盛側は、結局引き上げていったそうですが、
祇園社の神官さんたち、当然黙ってはいられません。
祇園社はこの暴挙を、比叡山延暦寺に訴えます。
(当時、祇園社は延暦寺の末社でした。神社のお上がお寺って、今だと変な感じですけど、
当時はお寺も神社も、ひとつの組織になっていたんですね)
さてこの乱闘事件の11日後、
6月26日のことです。
この訴えを聞いた延暦寺は、
清盛のみならず、その父親である忠盛もろとも父子を流罪にしてくれるよう、
鳥羽法皇に直訴したのです!
この事態に衝撃をうけた忠盛は、素直に息子清盛側の非を認め、
事件に関係した郎等たち7名を、検非違使に引き渡して謝罪しました。
事態はこれで終息するかと思いきや、延暦寺衆徒の怒りは収まりません。
ついには6月28日、
僧兵たちが大挙して強訴(ごうそ)に及んだのです!
「強訴」と言うのは、僧兵や神官といった神官者たちが、
仏神の権威を誇示し、集団で朝廷や幕府に対して訴えや要求をすることです。
ざっくりいうと、神様仏様を連れてきて、クレームを言いに来るということです。
どうやって神様仏様を連れてくるかって?
今もやってますよ。
そう、お神輿(おみこし)です!
お神輿は、英語でも’portable shrine'(持ち運びできる神社) と言いますしね。
当時は現代に比べて科学も発達していなかったし、
どなたも皆、なにかあると神仏にすがるしかありませんでした。
その神仏に仕える人たちが、神仏を連れてクレームを言いに怒ってやってくるというのは、当時の人にとっては非常に怖いことだったのです。
(現代で、もし神官さんやお坊さんが、皇居や霞が関に神輿かついで騒ぎに来ても、正直怖いというよりも面白いと思われるだけですよね( ´∀` ;))
そんな恐ろしい強訴の中でも、延暦寺の強訴は興福寺のものと並び最も恐れられており、
延暦寺の僧兵は、日吉神社(ひえじんじゃ)の神輿(しんよ)を担いで、
忠盛清盛の流罪を求めてやってきたのです。
これを知った鳥羽院は、院宣を発して「道理に任せ裁許(判決)する」と約束し、
ひとまず僧兵たちを帰らせることに成功しました。
ですが、その後中々裁許は出ず、
腹を立てた僧兵たちは、再び上洛する動きを見せはじめます。
結局、一月以上経った8月5日、やっと裁許がでたのです。
その判決は……?!
贖銅(しょくどう)
でした。
実刑の代わりに銅を納めることです。
えっ、、、、、
島流しどころか、拘束もなく、金目の物を納めて終わりってことです。
こんなの納得されないですよね。
でもそこは鳥羽法皇、
体を張ったようでして、
祇園の神様には何回も謝罪に行かれたようです。
このような鳥羽院の態度をみて、ついに延暦寺の僧兵たちも矛をおさめたのでした。
でもこの謝罪って、 はい、
本来清盛がすることですよね…
法皇に尻拭いさせるなんて。。。。
そこまで法皇にさせる清盛、恐るべしです。
それでも、「たけきものもついにはほろびぬ」(『平家物語』)、
平清盛はこの事件の34年後、治承5年(1181年)に死亡、
そして平氏一行も、清盛の死からわずか4年後の1185年、
壇ノ浦の戦いに敗れ、滅びたのです。
「特攻服で初詣お断り」は、
服装のことで揉めて乱闘するなんて二度と御免だという、
約900年近く前から続く、
八坂神社の切実な願いだったのです。
この乱闘事件、「祇園社乱闘事件」と呼ばれ、
八坂神社境内東に、事件簿の駒札が立っています。
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ディスカッション
コメント一覧
強訴の話では、京都市役所近くにある白山神社が面白いです。
加賀の白山権現から御輿を三基担いで京の都まで強訴に押し掛けました。
しかし、うまくいかずに仕方なく帰る事になりましたが、そうなると三基の御輿が重いしじゃまになりました。
そこで嫌がらせもかねて御輿を放置して帰ってしまいます。
困ったのは町の人たち、御輿だけに壊すわけにも棄てるわけにもいかずに、仕方なく一基の御輿は祠にして神社としてお祀りしました。
残りの二基の御輿は祇園社・八坂神社に引き取ってもらったとか。
その祀られた神社が白山神社で、今では歯痛に御利益があるとして信仰されています。
コメントありがとうございます!
へえ、そうなんですね!初めて知りました。
勉強になりました、ありがとうございます(^^)/
またお詣りしてきます!